元号(年号)が令和に変わりました。(第593号令和元年年5月1日)

元号(年号)が令和に変わりました。こうした元号が変わる時には色々な事件が起こると言われます。昭和から平成の時は竹下内閣、リクルート事件が思い浮かぶのではないでしょうか。明治から大正の際も桂内閣の崩壊そして山本内閣:ジーメンス事件が思い浮かびます。
今回、取り上げるのは大正から昭和に改元された時期に起こった事件・金融恐慌を中心に話を持っていきたいと思います。

この問題、簡単に言えば、関東大震災時に発行した震災復興手形の割引に関して、予算委員会で時の大蔵大臣・片岡直温の国会答弁で「渡辺銀行が破綻する」というような発言を行い、その取り付け騒ぎ、取引停止を皮切りに幾つかの銀行が潰れ、一旦落ち着くもの台湾の紙幣発行していた銀行である台湾銀行の休業からついには皇族などと取引のあった第十五銀行まで破綻するに至り若槻内閣総辞職、田中義一内閣の組閣、高橋是清蔵相が再出馬し、有名なモラトリアムを行い裏の刷っていない200円札を刷り各銀行に配布し取り付け騒ぎが落ち着いた…。その間前述の多数の銀行が破綻したことを言います。
この根本は第一次大戦後の不況下で発生した多額の債権を関東大震災後に発行した震災手形で割引した債権のうち不良債権となったもののほとんどが台湾銀行と今の日商岩井の中の日商の前身である鈴木商店との不正な関連によるものであったことによります。鈴木商店は倒産し台湾銀行が休業したという結末になりました。
この、事件を含め、この田中義一内閣で起こった出来事は比較的自由だった大正期から太平洋戦争に至る昭和前期の大きな転換を起こしたと言えます。それを書き始めると、この紙面を2面ほど使ってしまうかもしれませんので、ここでは大正期から昭和に至る簡単な政治・経済状況をみていきましょう。
太平洋戦争前は民衆の意見が反映されない暗黒の時代だという説がありますが、日露戦争のポーツマスでの交渉時の日比谷公園での焼き討ち、桂内閣の倒閣、清浦内閣の倒閣、米騒動など市民の立ち上がりによって政治状況が変わる世論を考えながら政治は行われている面がありました。政党政治も始まり明治の末期に伊藤博文、西園寺公望などを中心として組織された政友会、桂内閣辞職後桂太郎そして内務官僚などを中心に組織され三菱財閥に近い憲政会が出来、2大政党制がひかれます。
大正期、原敬が最初の政党内閣(確かに明治期に大隈重信と板垣退助が首班となった内閣はありましたが)が出来上がります。後に革新倶楽部が加わりますが英国の2大政党制と似たような状態となります。政党政治家として、原敬、加藤高明が各々政友会、憲政党を指導してゆきます。原敬は暗殺で、加藤高明は病気で亡くなります。彼らは元老にしてはと考えられていたと言われるぐらいの人達で、その死は昭和の政党政治の混乱の一因とも考えられます。
原敬の後、子爵から降りた高橋是清が後を継ぎます。経済手腕のあった人ですが政治的な手腕には欠け政友会は政友本党と分裂し、田中義一が後を継ぎます。
田中義一は陸軍時代、シベリア出兵を主張したり何かと問題のある人です。これらの政党は、政権獲得のため政争を繰り返し足の引っ張り合いを行います。この政争の具に震災手形の問題は使われるわけです。
経済界はどうでしょう。第一次大戦時は世界中から注文があり非常な好況に沸きます。戦後不況となり関東大震災が追い打ちをかけます。この時復興のために出された震災手形を戦後不況で喘いでいた鈴木商店に適応したのが台湾銀行です。景気は決して良くなかった。まだケインズ理論が適応される前の古典派の時代で、正統な経済体制に戻るためには金本位制へと言われていた時代です。裏の刷っていない貨幣は非常時の対応でした。
軍部はどうでしょう。実は大正期軍部の権威は落ち、街中で唾を吐きかけられるなど軍人の権威は低下していたと言います。
また、陸軍では宇垣軍縮で3個師団を減少させていますし陸海軍大臣の現役武官制も取り払われ、軍人の地位は下がっていました。これに危機感を持つ中堅将校がこの当時に軍部の再起のため有名なバーデンバーデンの誓いを行っています。これはこれで問題ですが彼らが仲良く陸軍を指導するわけでもなく、彼らの中でも派閥ができその抗争が始まっていきます。
海軍はどうでしょう。軍政家としてワシントン軍縮条約をまとめた加藤友三郎が病死し、山本権兵衛は第2次内閣を関東大震災後に組閣するものの虎ノ門事件で総辞職表舞台から消えてしまいます。相対的に東郷平八郎の意向が幅を利かすこととなります。それが昭和初期に海軍内の派閥抗争に利用されます。
このように政治・軍事とも過渡期で混沌とした情勢下で経済問題が起こり昭和は始まりました。

児玉です。
何を書いたらいいのか困惑しています。ただ、この関東大震災の時も政治は不安定で、地震発生の8日前に、時の加藤友三郎首相が死去して首相不在という状況でした。これでは、手当てに遅れが生じるわけです。
鈴木商店に関しては、陰謀・捏造報道があったようで、近年、色々と復権の動きがあります。
生前譲位・改元は200年以上も前以来とのこと。この時も維新に繋がるゴタゴタはあったのですが、それは置いておき、せめて「令和」改元について、考えてみたいと思います。
まず、無論のことですが、漢字には複数の読み・書き方・意味があり、それが時代・地域・政権によって様々に変わって存在し通用しています。よって、一つの読み・意味だけをとって「令和」の文字を解するのはナンセンスです。(いつの王朝、いつの時代にも元号にケチをつける人は必ずいますので。ある意味、それも歴史のお約束ですが…。)
そもそも令和とは『万葉集』から採ったといいます。「初春の令月にして気淑く風和ぎ…」という歌だそうです。
さて、『万葉集』が編まれた時代、当時の人は「令」を呉音で「りょう」と読んだでしょう。律令(りつりょう)・令旨(りょうじ)などの言葉がそれを示しています。この「りょう」ならば、「order」と訳されても仕方ないかもしれません。しかし、新元号発表の際、菅官房長官はあえて令を「れい」と発音しました。これはさきほどの『万葉集』の一節「令月」が元で、すなわち「令嬢」・「令名」の「れい」です。英語で言えば、「elegant」でしょうか。そして「和」は「harmony」ですから、「令和」とは「Elegant & Harmony」という事になりましょうか。悪くないんじゃあないでしょうか。慣れるまで幾ばくかの時間はかかりそうですが…。

昭和はこのような混沌な状態から政党・資本家は国民に愛想を尽かされ軍部主導の国家へと日本は移行します。清潔と思われた軍部も派閥抗争がはびこっていましたが世間にそのような話はあまり出ません。世論というのは恐ろしくマスコミが煽り、深く深く軍部主導に進んでいきました。また、技術・学問の進歩が常識を変えていきます。
3月事件・5月事件、5・15、2・26事件など軍部によるクーデターを企画するものの試みは失敗します。こうした軍部の動きを時の政治家は利用しますが2・26事件では昭和天皇が信頼する重臣を逆賊として殺害したことから、当時の支配層は殺されるかもしれないという感情が大きく醸し出されました。軍部特に陸軍に逆らえないといった状況を作りだし、米・英を相手にした戦争に突き進んでいき8月15日を迎えていくわけです。
昭和から平成は我々が実際に経験したことですのでここではあげませんが今回の令和への改元は明治・大正・昭和と異なり天皇の死があり喪に服してからの新天皇の即位への流れではないため、新しい元号を祝うという祝祭的な雰囲気が満ち満ちています。
最近昭和天皇時代に最後の方で侍従になった小林忍氏の日記の抜粋が出版されました。その中には晩年まで太平洋戦争について悩まれる昭和天皇のお姿や昭和から平成に改元される際の儀式などのドタバタした内側が書かれています。
国民に祝福され改元・譲位に関する儀式などのドタバタを回避されるために上皇はこの時期での譲位をお考えになったのでしょうか。
以前の改元時には大変な時期の前兆が見られました。改元を機に悲しい歴史を振り返りそれがまた起こらないように令和が幸せな時代であったと言えるように夢想的ではなく考えていかなければいけないと、令和という言葉が示す児玉先生の言われるように世界が「Elegant & Harmony」になればいいなと思います。

長楽地区  内藤 武夫
武庫川地区 児玉  岳